熊野古道、少しずつ
2005年5月10日(火) 晴れ

熊野古道伊勢路・通り峠

玉置山ハイクから中2日おいて、また熊野古道のほんの一部を歩いてきました。今度は大型バス2台で、吉野川沿いを紀伊半島を縦断して南端近くの海辺まで。遠かったけれど揺れは少しましだったかな。遠い分帰りに温泉なしなのが残念。でも、今日もすばらしくいいお天気で、ちょこっと歩きたい病には歩きも景色も最高でした。
苔むした石畳を歩く 通り峠 峠の子安地蔵
歩きやすい平面橋、元丸木橋?
よく手入れされた杉林の中
古道の雰囲気、苔むした石畳を歩く
上、通り峠 峠の子安地蔵
下、木の橋、昔は丸太だけ?
昔、この道は、熊野詣のためばかりでなく、陸の孤島のような海側の村と町を結ぶ唯一の生活道でもあったそうです。今でこそ、鉄道の紀勢線も海沿いを通る国道も和歌山県側から三重県側へいくつもトンネルを抜けて一息で越えられますが、昭和30年代までは険しい崖に阻まれて山越えしかなかったそうです。
<そうでしたね。その頃和歌山県中部海側で暮らしていました。国鉄線は紀勢西線(きせいさいせん)といって、紀伊木本〜尾鷲間は不通でした。紀伊半島東の方、三重県側は紀勢東線と呼ばれていたのでしょう。>



丸山千枚田

通り峠から山道を下ったところに千枚田が広がっていました。千枚田といえば、能登の先端、海に面した急斜面が有名ですが、最近では和歌山県北部の丸い丘になっている棚田の写真をよく見ます。あちこちにこんな大掛かりな階段状の田があったのですね。景観としてはすばらしく美しい。果樹園などの段々畑とは違う造形的な美しさ。小さい田が2200あまり、数百年もの間ここで営々と米作りをしてきたそうです。
だけど、こんな山の上まで、ただ耕しただけでなく、水田だから、それはもう大変な労働を必要としたでしょう。水を張ってもれないように、全部の田に水を引けるように。田起こしから稲刈りまでの米作り作業を全部この山の上までやりに来たのですから。
紀州徳川55万石と言われるけれど、山が海まで迫って耕地が狭く、温暖な気候だけれどあまり米はとれなかった。だから紀州や奈良の茶粥は、必要に迫られての工夫だと聞いたことがあります。今は、米作り文化遺産として手間をかけて残しているそうです。
千枚田、ほぼ全貌 上から見下ろす
全貌を見晴らせる道路上の展望所から 一番上から中を歩いて下ります
1枚1枚の田は石垣の上 説明版
1枚1枚の田が石垣の段の上 説明板、ここ紀和町は三重県です
ひかる田 山に上る田
営々と築き農業を維持してきた人間の作った景観、すごい眺めですね
田植え済み 極小田に稲3本
1枚の田からどれだけの米が取れるのでしょう ちょっとしたお遊び?特小田んぼ、田植え済みの稲3本

ニワゼキショウ、紫 ニワゼキショウ、白
田の畦や空き地に多かったニワゼキショウ、紫と白

標識 派手、何の花?
林縁に派手な大きい花?
一緒に歩いていた人から
千枚田を下まで抜けて、しばらく林道を歩きました ヤブミョウガかもと聞いたけど、違うみたい



奇岩続く鬼ヶ城
南紀の海 風と波に浸食された岩
通り峠は左の山の中、すぐ下が黒潮洗う南紀の海
明るくきれいな海の色に思わず歓声
風と波に浸食された岩
奇岩の崖に遊歩道 垂れ下がる岩天井
1キロ続く奇岩の崖に遊歩道がつけられている 浸食された岩天井の端が垂れ下がる不思議な光景
向こうの岩は魔見ヶ島 外国からの観光客がいっぱい
向こうの岩の島は魔見ヶ島と呼ばれる島
昔、多賀丸という海賊がいて、それを鬼とみたてて、
この島に隠れた坂上田村麿が征伐したという伝説に
因んで、奇岩の一帯を鬼ヶ城と呼んだという
観光バス5台以上連ねて外国からの観光客がいっぱい
顔や姿形は日本人と同じ、言葉がさっぱり分からない
圧倒的に若い人が多いのが日本人団体ツアーと大違い


新宮までは何度か来たことがあったけれど、 ここまでは来たことがなかった。紀勢線が途切れていたころのことです。鬼ヶ城は聞いたこともありませんでした。お昼ごはんのついでにちょっと見学しただけでしたが、海は南国らしい澄んだ青で、熊野古道が海沿いにもあるというのがこういうところだとは想像もしませんでした。楽しかった。


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