歴史探訪、山と海
別 子 銅 山 跡

10年10月21日(木) 曇り




日本の秘境、東洋のマチュピチュといわれる別子(べっし)銅山跡。鉱山跡はどこにも行ったことがなかったので楽しみにしていました。
7:00に難波を出て、7:30に梅田を出発した2台のバスは一路愛媛県別子銅山に向かいます。足の痛みやら歩くところが長いのだろうかなど不安で前夜眠れず、せっかくの明石海峡大橋、徳島自動車道、松山自動車道と乗り継いだバスの車窓を楽しむことはなく、ひたすら寝ていました。今は新居浜市に入っている四国山地の中にマイントピア別子という公園化された銅山跡がありました。

マイクロバスに乗り換えて東平(とうなる)ゾーンへ
まさしく九十九折のくねくね道、しっかり目をつぶって酔わないように、時々薄目をあけるだけ
途中何ヶ所か、社宅跡の石垣が見えました


東平(とうなる)は、赤石山系の標高750m前後の山中にあり、大正5年から昭和5年まで別子銅山の採鉱本部がおかれ、銅山関連施設や最盛期には3800人の銅山関係者の住む生活関連施設もあって、昭和43年東平抗休止で無人になるまで大勢人の住む山の町だったそうです。


東平ゾーンを地図で示しながら説明してくれるガイドさん
歴史資料館内、写真パネル展示
少し年配の元気な女性ガイドさん、最後にバスに乗るまで、詳しく分かりやすく説明してくれました
銅山の歴史、諸施設の役割、人々の暮らし、ちょっと住友自慢


道具類 模型:学校も病院もあった大集落、段々になった社宅群
小マンプ(トンネル) 内部に当時の運搬機器類を展示してある

日本三大銅山のひとつ別子銅山は、元禄4年(1691年)の銅山峰南斜面における住友家の開掘で始まり、世界でも稀にみる大鉱床は、海抜1291メートルの山岳部から地中深く貫入、総出鉱量3000万トン、産銅量72万トンに及んだとか。海面下1000メートルまで掘削したところで、昭和48年に地熱の上昇と地圧の増大により283年の歴史を閉じて閉山にしたそうです。

このあたり一帯は霧の多いところとか
山の向こう側の南斜面に銅鉱石が表出していて
そこから下へ下へ鉱脈に沿って掘り進めたものだそうだ
今いるこちらの貯鉱庫へは策道(*)を通して集められる
石積み遺構を横に見ながら進む
上が貯鉱庫、下が策道(*)停車場の遺構 貯鉱庫の一部


(*) 索道(さくどう)とは、空中を渡したロープに吊り下げた輸送用機器に人や貨物を乗せ、輸送を行う交通機関で、
ロープウェイやゴンドラリフト、スキー場などのリフトなどが索道に含まれるーーーウィキペディアより


遺構を下からも見られるように、
インクライン跡を220段の階段にしてある
インクラインの説明
写真をクリックすると、拡大版が別窓で出ます
220段下りたところ、策道停車場の遺構
まだ下にも遺構が見えているが下りられない
停車場から上ったところに、貯鉱庫の遺構
貯鉱庫の一部



石積みの端
強固な石積みが必要だから石は別のところから
御影石を運んできて積み上げたとか


端出場(はでば)ゾーンへ移動
日本最初の山岳鉱山電車・・・今は観光機関車
横に見えるのは、当時走っていたかご電車
人も物も運搬したらしい
端出場(はでば)坑道出口
坑道の中は、模型や人形による展示がつづく
銅鉱石
写真をクリックすると拡大版が別窓で出ます
排水を川に流さず水路を作って浄化処理したので
鉱毒問題は起きなかったそうだ


昭和48年といえば、大阪万博直後。私の感覚ではついこの間のことで、その頃、海面下1000メートルのところまで掘り進んでいたのかと思うと、怖いという感覚とすごいなぁという感慨が湧きます。 江戸時代、当然危険な職場だったわけですが、あちこちから働きたい人が大勢集まってきたそうです。農家の二三男は白米がたっぷり食べられるというだけで、喜んでいたというのですが・・・。昭和の戦後でもそうだったのでしょうか。いや、安全管理が進んで、他の危険といわれる職場との違いが特別なかったのでしょう。






しまなみ海道を北に進んで、広島県福山に行きます

今夜の宿は福山市内のビジネスホテル。旅行社のツアーでビジネスホテルが初めてというわけではありません。夕食は外でというのも分かります。それにしてもここはひどかった。

ホテル前でバスから降りた後、フロントのある2階までのエレベーターが小さい2基しかなく、階段はないかとみんなで探しましたが、鍵のかかった外の非常階段しかなく、90人のツアー客が何十分も外で待つ羽目になりました。
それだけでも、もうみんなムカッとしていたのですが、フロントでルームキーをもらうのがえらいことになっていて、ひとりの男性のまわりにワーと何十人も集まり、バスの中で添乗員から渡された自分の部屋番号を叫んでいます。そばにホテルの若い女性3人が手持ち無沙汰に立っているのです。イラついた男性客が女性に噛み付いていましたが、彼女たちに噛み付いても仕方ないでしょう。
多分私たちのツアー客だけで50室以上はあったでしょうが、全部のキーがひとりの手元にまったく分けられず並べられず、ごちゃごちゃにトレーに乗っていて、番号をいわれるとひとつひとつ細いキーホルダーの小さい番号を探すのです。せめて各階ごとに分けて、何人かで手渡すようにすれば何十分の一の時間で済んだでしょうに。

地方都市の夜は早く、ホテルのまわりに食べ物屋さんはなく、元気よく少しはなれたアーケード街まで歩く人たちもいましたが、とてもそんな元気は残っていないので、10分歩いてスーパーでアナゴ寿司とビール、キムチを買い、自室で食べました。食べる前に、最上階の展望大浴場にいったら、お風呂は良かったです。温泉ではないけど、清潔でそこそこ広くて疲れが取れました。
次からはもっと段取りよくやってくれるだろうと思いたいけれど、みんな怒りが爆発してましたから、この旅行社はもうこのホテルは使わないのでは・・・。
次は、造船所で進水式見学、みろくの里、鞆の浦散策→