歴史探訪、山と海

10年10月22日(金) 曇り   別子銅山跡からつづく

昨夜イライラさせられたホテルでしたが、朝食は出発時間に合わせて予定より30分近くも早くしてくれ、覚悟していたよりは献立も豊富。しっかりした女性スタッフがひとり全体に目を配って、バイキング式で足りなくなった皿やボールにはすぐに足して不満の出ないように、少ないテーブル椅子でも回転よく人が出入りして、昨日の対応とは雲泥の差。多分、大勢の団体客を扱い慣れていなかっただけでしょうが、引きうけた以上はちゃんとしてもらわなければ、格安?ツアー客といえど旅慣れて、泊めるだけのビジネスホテルであってもサービスの本質を忘れては厳しく糾弾されますよ。


進 水 式

福山市の造船所で、最近では珍しいという進水式を見学しました。9:00から開扉という大分前から門の外で待ち、構内に入ってからもいろんな予行演習の間かなり長く立ったまま待つのが、足が痛くなってつらかったですが、待った甲斐がありました。

こちらが船首、高さは約30メートル 全長約300メートル、82000トンの貨物船
幼児演奏、鼓笛隊
彼らの前方に船主たちVIPがニコニコ
国旗掲揚、日の丸と中国国旗 青の垂れ幕が上げられ船名披露
少し前に、そばの警備の人に船名を尋ねたら自分たちも知らなくて
セレモニーの一環で披露されるものだという


船主、ミセス ○○ リーがロープをたたき切ると、汽笛が鳴って紙吹雪が舞い、スルスルと後方へ滑っていきました
スーと流れるように滑ってあっという間に遥か後ろの海上に浮かんだようでした


進水式というのは文字通りセレモニーで、いわば船の誕生祝い。生まれたばかりの船が海に浮かぶ瞬間を祝って、長く無事に航行できるようにと祈る式なのだとか。アナウンスは全部英語でした。船主に合わせるということなのでしょう。
この後、船の去ったデッキでもちまきがあるようでしたが、屈強な力自慢が活躍する場らしいので、私たち中高年見学客は遠慮して、帰りのバスの中で、紅白のお餅と立派なパンフレットやDVDまでおみやげにもらいました。感動の進水式でした。




みろくの里

総合レジャーランドということでしたが、乗り物に乗る人は多分いなかったでしょう。私たち向けに‘いつか来た道’として「昭和館」「思い出横丁」など勧められましたが、まだその辺にいくらでも残っていそうな光景であり、横丁にいたっては昭和30年代の有楽町ガード下を再現したものとか。この福山のテーマパークでどれだけの人がこのうす汚れた居酒屋横丁を懐かしむというのでしょう。子どもと若い人はまず入ってこないでしょうし、年配者も喜ぶとは思えません。

酒屋 石炭ストーブ?
農機具 メンコ、西宮あたりではベッタンといっていたような

足は痛いしお腹がすくし、疲れて、どこかに座ってお昼にしたかったのですが、アイスなどおやつっぽく、軽食すらないようで、1時間近く早く外に出てしまいました。出ても何もなくて、バスのドアはしまっているんですけどね。




鞆 の 浦

一昨年夏公開の宮崎駿監督“崖の上のポニョ”の舞台といわれ、 最近ではNHK大河ドラマ「龍馬伝」で、いろは丸沈没事件が起こったばかり。観光客も増えているらしいけれど、ここは何年も前から港湾埋め立て架橋問題で反対派と賛成派が裁判で争っている土地。有名アニメ作家がこの景色に触発されてものがたりを作るほどの景観でもあり、昔は瀬戸内航路の要所で、竜馬の乗ったいろは丸が紀州藩の船と衝突、沈没して日本で最初の蒸気船同士の事故となった歴史的場所といくつも残したい要素があるのだけれど、いずこも同じ、道は狭く、下水が整備できていなくて、住民には不便ということのようです。
湾の東側を望む


狭い路地から路地へ


港の海のすぐそばでバスから下ろされ、さてどこへ行こうかとまわりを見回すと、あちこち少し小高いところに階段があって上がって行けそう。ちょっと高みに上ればこの狭い湾は一目で見渡せそうで元気なら迷わず上るところですが、昨日から散々歩いて足が動かなくなっています。とにかく座りたくて、海沿いの細道を少しだけ歩いて、いろは丸展示館と太田家住宅に入りました。

いろは丸展示館入ったところ いろは丸模型と潜水調査の写真
パネルの下に、いろは丸が横たわっていると思われる海底の様子を模型展示してある

ありがたいことに入ってすぐのところでビデオ上映中。ゆっくり椅子に腰掛けて見させてもらいました。24時間テレビか何かの番組の一部で、沈没船の潜水調査を生中継している映像でした。引き上げられた小さい金属製品は鉄砲の部品ではなくドアノブの一部でしたが、龍馬の持ち物が何か出ないかとテレビ進行係たちはそんなことばかり言って、本来学術的な調査らしいのに騒がしいものでした。まだいろは丸かどうかの断定もできていない段階のようでしたが。
でも、おかげでからだは休まり、ちょっぴり龍馬のいろは丸に近づいたようで楽しめました。

龍馬談判の町家というけれど・・・ いろは丸事件談判跡と書いてある・・・
もらった地図には、離れた別の寺が龍馬が紀州藩重役と交渉した場所と記されている


太田家住宅
江戸初期に薬酒・保命酒の醸造をはじめて財をなした旧酒屋の建造物
国の重要文化財指定を受けている
左、太田家住宅
右は別邸とか

この太田家住宅は立派な建造物で、蔵は六棟もありました。説明してくれた人たちは直接の子孫ではないようでしたが、その権高な物言いには胸が悪くなりました。客が玄関に立って奥まで見れば、自分が入れる屋敷かどうか分かるようにしてあるとか。入ってきた客に一部屋ずつ順に違うお茶を点て、どの段階で作法が分からなくなるか、客の選別をしたのだとか。
いいのですよ。そりゃ、江戸時代ですからね。身分の上下や金のあるなしで作法の身につき方も違ったことでしょう。だけど、現代にあって、庶民から金を取って見せておきながら、自慢げにそんな言い方をするものですかね。


バスから下ろされたときに約束した場所より随分遠い駐車場でバスが待っていて、多分、やむを得ない事情があったのでしょうが、動きたがらない足をゆっくり運んで何とか時間内にバスに乗り込めてほっとしました。時間になってもひとり乗ってこなくて、添乗さんがバスから降り、最初言っていた場所まで走ってようやく全員揃いました。
結局お昼にありつけず、港のテントで買ったパンを食べた後、山陽道を走った帰りのバスでもひたすら寝ました。つかれたぁ・・・