大 和 路 歩 き
柳 生 街 道

首切地蔵山の辺の道に続いて3月と4月に、柳生街道を歩きました。柳生の里から奈良までの16キロを真ん中の円成寺で分けて8キロずつ。山の辺の道の感覚でいたらえらい違いでした。ずるずるの山道をハーハー息荒く登ったり下ったり。さすが剣豪の歩く道は、天皇や公家とは違うと言いたいけれど、ここは単に山道というだけのことでしょう。

見晴らしのきかない暗い山の中をひたすら歩いて、やっと里が見えてきたときにはほっとしましたが、そこからがなかなか長くて下りだから楽なはずなんだけど、見えていて着かないというのもしんどいものでした。
田んぼの中に“おふじ井戸”というところがあり、ここで洗濯していたおふじさんをお殿様が見初めて言葉を交わしたといういわれのある井戸だそうで、そういうお話より何より、ちょっと立ち止まって休憩できたのがうれしかったです。はい、疲れてました。

峠の茶屋2回目は、円成寺から滝坂の道を通って奈良まで。
“峠の茶屋”というずばりそのまんまの茶店で休憩。他にお客もなく、私たちが買占め状態。お団子草餅が飛ぶように売れて、出来上がるのを待つ人もいました。
地獄谷石仏へは、山の中を少し下りて往復。昼なお暗い谷の石窟に3体の仏さんが彫ってあり、この後もいろんな石仏を見ましたが、何故かここだけ鉄格子がはめられていました。よほど大切な石仏なのでしょう。
ドライブウェイを横切って滝坂の道に入ると、このページ上の写真の首切地蔵、他に朝日観音、夕日観音など石仏が次々に現れます。
首切地蔵は思ったより大きい石像で、荒木又右衛門が試し斬りをしたといいますが、何でまた石のお地蔵さんを? 後、刃がボロボロになるでしょうに。ま、斬れるとは信じられないのではありますが。
朝日観音には朝日が、夕日観音には夕日が当たるという説明でした。確かに夕日が当たって目立っていましたが、向かい側の高いところにあるので、他の暗くてよく分からない石仏と一緒に写真はボツ。
当時膝を痛めていたので、きつい下りのあるところへは行かないようにしていましたが、きつい下りと同じくらい膝に悪いのは、石畳だと知ったのはこのときでした。大小の石が道いっぱいに敷き詰めたところがあって、ゆるやかな道だけど、最後は痛くてびっこひきひき歩きました。



ツアー客におまけの喜びをということか、柳生街道の帰りに、3月に月ヶ瀬梅林、4月に笠置山を歩きました。月ヶ瀬梅林は昔、有機農法でお茶を作る元気おばさんを訪ねたときによく梅もぎをしたところ。花の頃はお手伝いすることがないからと実の頃によく行きました。んっ!違ったっけ? 当時と違ってすっかり公園のように整備されていました。梅見の人が多いのでしょうね。
吉野山に南朝を建てた後醍醐天皇が行在所を置いたという笠置山。はじめて行きました。巨大な磨崖仏がいくつもあり、288メートルながら頂上からは眼下に木津川、田んぼ、集落がよく見え、戦略上いい山なのが分かります。
<1996年3月〜4月>



当 尾 の 里

“とおののさと”と読みます。京都府だけど、歴史的にも地理的にも奈良・大和とつながりが深い土地のようです。岩船寺(がんせんじ)から浄瑠璃寺(じょうるりじ)まで1時間ほど、道端の石仏を見ながら歩きました。
笑い仏
写真は笑い仏と言われる笑みをたたえた阿弥陀三尊。他に、怖い顔をした不動明王立像、ひとつの岩に阿弥陀仏と地蔵菩薩を彫った磨崖仏、仏像の横に灯篭の形を線で彫って、小さく四角に彫り込みを入れて灯明を供えるようにしてあるのが面白い。
カラスの壷というのが分からなくて、添乗員さんと一緒に山道をどんどん20分も無駄に歩いたのが忘れられません。分岐にあった石の上に小さな穴があいているというだけのものだったから、見落としたというわけです。どうしてこれがカラスの壷?みんな首をかしげながら正しい道に戻りました。
道端で花や柿などを売っていると聞いていたので、それも楽しみのひとつだったのですが、菊の花や柿は秋のものでした。秋しかやってないのか、残念。
浄瑠璃寺 浄瑠璃寺三重塔
浄瑠璃寺、池をはさんで本堂と三重塔が向かいあう

十三重石塔右は岩船寺の十三重石塔。

岩船寺でも浄瑠璃寺でも、住職が仏教の基本というか、
仏像や建物の示す衆生救済の意味などを分かりやすく説明してくれて、さっぱり分からなかった阿弥陀如来、観音菩薩、地蔵菩薩など、少し整理がついた気がしていましたが、いまやもとの木阿弥。

建物、池、塔、その向きやありように意味があるらしい。

紅色睡蓮 白睡蓮
岩船寺の池に咲いていた睡蓮

<2000年6月>