大 和 路 歩 き
飛 鳥 を 歩 く

甘樫丘から望む畝傍山第1回スイス同窓会をするはずだった飛鳥。いろんな事情から私ともうひとりが参加できなくなり、その年の初夏と秋にひとりで歩きました。
近鉄橿原(かしはら)神宮前駅から東に約2.5キロの甘樫丘(あまかしのおか)から見た飛鳥の里の風景です。左写真、左の山は畝傍山(うねびやま、199m)。さっき電車を下りた駅の向こう側にある橿原神宮の背山という感じです。

左奥の三角山が耳成山、右が天香具山右写真、左奥に小さく見える三角形の山は耳成山(みみなしやま、140m)、右は天香具山(あまのかぐやま、152m)。この大和三山は平らな大和盆地の中にぽつぽつと見えて、古代から万葉の歌に詠われて有名ですね。でも初めて教えてもらったときには、その小ささにびっくりしました。
どの山も頂上まで登れます。信仰の対象になっているわけではないようです。この数年前に大和三山めぐりというハイキングツアーに参加したことがあります。山は低くあっという間に登れますが、三つの山をめぐる舗装道路歩きがつらかった。よくウォーキングで20キロ30キロの舗装道路を歩いておられる人たちは、膝や股関節が痛まないのでしょうか。からだのバネが違うのでしょうね。三山とも頂上からはあまり展望がききません。
こうしてみると何の変哲もない日本の田舎の景色に見えますが、こののどかな風景は住民に課せられた厳しい規制で保たれています。 地理的に大阪通勤圏といえる場所で、規制がなければどんどん高いマンションなどが建つでしょう。『環境抜群、万葉の里、飛鳥』 なんてね。

<2001年5月>



稲わら秋に来てみると、少しずつ束ねられた稲わらが田んぼに無造作におかれていました。瑞穂の国日本は南北に細長く、気候風土の違いからでしょうか、刈り取った後の稲の干し方、わらの始末、いろいろ違うようです。今はどこでも大型機械コンバインで刈り取りながら脱穀して稲わらも切り刻んで田んぼにばら撒くのが一般的なようだけど、飛鳥ではこの風景も歴史的遺産風景なのかもしれません。関西地方では稲は長い竹のはさに掛けて干すと思っていましたが、いろんな段階があるのでしょうね。この後昔よく見た大きな円筒形に積み上げるのでしょうか。

石舞台飛鳥と言えば昔から有名なのは、蘇我馬子の墓ではないかといわれる石舞台。よく見るまわりに何もない写真などで、道の真ん中にあるのかとぼんやり考えていましたが、立派な公園になっていて、ちゃんと入場料を払って入りました。
広い場所にぽつんと石舞台だけがあるので、それほど大きいとも感じませんが、内部に入るとその広いこと、大きいこと。とてつもなく巨大な石が頭上にあるのは怖いです。石と石の隙間から空が見えるのですよ。火山国地震国日本で、1400年間崩れもせずにこうしてその形を保っているのは驚異的に思えます。奈良には地震がなかったの?あっても大丈夫だったの?
石舞台、入り口 石舞台、内部


亀石なんとものどかな表情の亀さん。民家の横の生垣に隠れて、見過ごして行き過ぎてしまうところでした。 当たりをつけて入った細道で、通りかかった人に聞いたら、その人は1度目は気づかずにまた戻ったところだと言っていました。
亀石とは見た目でそう呼ばれていますが、用途は不明。元は上下反対だっただろうとも言われているそうです。
飛鳥にはこんな用途不明の巨石が遺跡としてごろごろ転がっています。鬼の俎(まないた)、鬼の雪隠(せっちん=トイレ)、酒船石など、その名のいわれとなった伝承はあるようですが、用途ははっきりしていない。古墳の石室材だろうという説が有力だそうです。

酒船石への道 酒船石
酒船石に行く坂道 小高い丘の上にある平たくて溝のような模様のある酒船石

亀形石造物遺構酒船石のある丘のすぐ下のほうに、2000年正月に見つかった亀形石造物遺構です。写真は2001年10月のものですから、今は発掘整備も研究も進んでいるでしょう。この遺構が見つかった時には学者さんたちがテレビで、大陸とのつながりを示す貴重な遺跡で、酒船石とのつながりのある祭祀のためのものとも考えられると言っていました。
発掘中で、別にしきりもなく、すぐ横から見せてもらえました。歴史教室のお仲間らしいグループがご高齢の学者先生という感じの方から詳しく説明を受けているところで、ちょっと失礼してありがたく聞かせていただきましたが、あまりに詳しく長時間におよびそうで、一礼して途中で失礼してしまいました。

飛鳥というのは、掘ればどこにでも遺構や遺跡がありそうで、そのすぐそばの国道横でも発掘作業中でした。同じくらいの石が平らに敷き詰めてあって、後日、日本で一番古い舗装道路だと報道されていて納得でした。
大変申し訳ないことに、私はここで熱心に土掘りをしている人に道を聞いてしまいました。亀形石の発掘現場はここですか?と。お仕事中にお手を止めてすみませんでした。横の道から奥の人に話しかけている白人男性もいました。幹線道の横だから、お気の毒に。若い白人女性も発掘に加わっていたし、国際的なんですね。世界中の発掘現場で日本人が活躍するご時世だもの、不思議でもなんでもないのでしょう。

川原寺跡
飛鳥の遺跡は、巨石や石造遺構が多く、だからこそ残っているのでしょうが、上に建っていた建物は後世になって再建されたものばかりとか。上の写真は、礎石だけ残っている川原寺跡です。
川原寺礎石 橘寺五重塔礎石
川原寺跡の道路のすぐわきにある
鍵穴みたい、前方後円形なのでしょう
橘寺の五重塔跡の礎石
飛鳥では今も、歴史を塗り替えるような大発見大発掘が続いています。この頃ちょうどキトラ古墳の石棺内部に極彩色の壁画が見つかり、中でも日本で初めてという朱雀の画が鮮やかにくっきり残っていると大興奮の渦でした。
ついこの間と思っていた高松塚古墳の発見から35年近く、最近、中の壁画が完全空調のもとで密封されて完璧に保存されているはずだったのが、カビが出たりはがれかけたりと分かって大変なことらしい。壁ごとはずして別の場所で保存すると決まったようだけど、反対もあって、石自体は堅牢でも、文化遺産の壁画の保存というのは大変なことで難しいのですね。
高松塚古墳のそばにある壁画館で復元壁画を見学しました。 壁画というと、何となく大きなものを想像していたのですが、石棺の中に描かれたもので、鮮やかな衣装の古代美女たちは、予想よりずっと小さかったです。

                 <高松塚壁画館のホームページはこちら
                      <文化庁・高松塚保存のホームページは
こちら

大和盆地の夕焼け帰りが遅くなって、橘寺のあたりで日が沈んでしまいました。大和盆地から見る夕焼けはよそとどこか違うのびやかな夕景色。古代茜色なんて言葉が浮かびます。おぉー、いいね、大和じゃのぅ。
でもうれしがっている場合じゃありませんでした。 街灯もない田舎道を駅までまだ30分以上歩かなくちゃなりません。ひとりで慣れない田舎道を歩くのだから、明るいうちに駅に着かなければ・・・午後になって思いついてこんなところまで出かけてくるのをやめなくちゃ。ちょっと反省。でもおかげでこんな夕焼けが見られて、うれしくて、やっぱり懲りないだろうな。
<2001年10月>

翌年の秋、飛鳥の東に連なる山並みの向こう側にある談山神社から峠越えで歩いて下りてきたときに、飛鳥寺に着きました。日本最古の大仏が何百年も風雨にさらされていたそうで、大変傷んだ姿で座っていました。そんな姿になってしまったからかどうか、すぐそばから拝観でき、写真もけっこうというのには驚きました。談山神社のページ最後に写真があります。こちら