大 和 路 散 歩
薬 師 寺
東塔
各層に裳階(もこし)がついて六重塔に見えるけれど三重塔
全体の姿も、相輪の頂上につけられた水煙4枚の透かし彫りも優美
2007年2月12日(月) 晴れ <唐招提寺からつづく>
唐招提寺からまっすぐもと来た道を戻って薬師寺へ。唐招提寺でも平成の大改修中でしたが、薬師寺は昭和の再興再建が大々的に行われた後、今も回廊部分など再建中。
駅から近い興楽門(北側)
40数年前に訪れたときには、古びた講堂と教科書にも写真が載っていた優美な東塔だけが建っていて、西塔の礎石にのって楽しんだ覚えがあります。名はあれどすっかりさびれた大寺院の印象でしたが、そのころから当時の高田好胤管主のテレビ説法が有名になり、薬師寺伽藍の復興に絶大な功績があったと思われます。現在の堂宇での説明では、全国の皆様の写経による浄財のおかげとあって、特に高田元管主を持ち上げていませんが。
白鳳伽藍と銘うった一画に入っていくと
梅並木があり、少し咲き始めていました
梅並木の南に建つ東僧坊
中はみやげ物屋かという感じでおどろきましたが
ベンチがたくさん置いてあり、僧侶による説法があるようでした

回廊は複廊になっていて、こちらは東回廊の外側 東回廊の内側、見えているのは東塔
古代創建時の薬師寺は飛鳥藤原にありましたが、平城遷都に伴って今の場所に移されたものだといいます。ただ、移転に際して建物や仏像をそのまま移したという説と、伽藍を一新して仏像も新造したという説とあって、長く論争になっているそうです。どちらにしても40年くらいの違いで、その後度重なる厄災によって東塔以外の伽藍は灰燼に帰してしまっているから、別にそれほどと思うけれど、要は、白鳳か天平かいずれの時代のものが残っているのかが重要になるらしい。
東院堂(国宝)
写真をクリックすると縁起についての説明が出ます
中は板敷きで靴を脱いで上がりました
銅造の聖観音菩薩像は、ほっそりと肉付き豊か
均整の取れた端正で優美な姿
東回廊が南端で曲がったところから
回廊越しに見える塔ふたつ
手前は東塔、遠くは西塔

南門、ここを出るともう外なので、駅にはすごく遠回りになると聞いて
そのまま、また境内に戻ったけれど、すぐ外に、薬師寺の鎮守として
休ケ岡(やすみがおか)八幡宮があり、国宝の三神像が祀られていると後で知り
行かなかったのを悔やみました

中門、外から 中門、中から

金堂、龍宮造りと称され、重閣に裳階をつけて4層に見えるけれど2層
昭和に建てられた新しい金堂、西塔、江戸時代に建てられていたのを新しく建て直した講堂、中門と複廊になっている回廊、東僧坊。どれもきらびやかで目を奪う朱、金、青と白との対比の鮮やかさ。見事です。残っている東塔の研究や発掘調査の結果から創建時のように建てたものだといわれます。ただどうしても私たちは年月を経た歴史ある古びたものを尊ぶ傾向があって、すごいと感嘆はしても感動とはなかなかいきません。
だけどどんなに古い歴史的建造物でも、創建時はこの鮮やかさだったのだし、当時の人々にはどんなにありがたい極楽浄土を夢見る装置だったことでしょう。これから歴史が刻まれていくのですね。
それにどんな古い様式の建物もその当時のままに建てることができる技術が継承されているのはすばらしい。日本の文化遺産はたいてい木材だからあちこちで解体修理することも多く、技術が受け継がれてきたのでしょう。これから受け継いでいかれる方々にも感謝感謝です。
東塔(国宝)、写真をクリックすると
縁起についての説明が出ます
西塔
写真をクリックすると、縁起についての説明が出ます

金堂の前の六角形の燈籠 大講堂、横に回廊の工事が始まっている
すでに出来上がっている回廊とつながって
金堂と東西両塔を囲ってしまうのだろうか
玄奘三蔵院と大唐西域壁画殿は、春と秋に一般公開され、普段は閉じているようです。
唐招提寺御影堂の東山魁夷画伯の障壁画といい、薬師寺の平山郁夫画伯の西域壁画といい、近くにある由緒正しい大寺院同士というのは、互いに影響しあって再興を競うもののようですね。巨匠と言われる画家による大作を何千年も遺そうと、同時期に立派な建物を用意して描いてもらうとは、なんとすごいことでしょう。修理でも再建でもなく、この時代の才能と精神を今後遺そうというのです。
右写真は写経道場や本坊寺務所の建つ寺域の入り口で、奥に見えている建物が、玄奘三蔵院伽藍部分の門で礼門というらしい。

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