南米21日間の旅
14日目 3月22日(土) くもり 後 霧 小雨
謎のインカ遺跡、マチュピチュへ

道が狭くて、バスはオリヤンタイタンボ駅まで行けないので、途中の何もない道路上で列車を停めてもらって乗り込むと説明を受けていましたが、なんと昨日、クスコ〜オリヤンタイタンボ間で脱線事故があった影響を受けて、その間は今日は列車が通らない。そこでバスを下りた後、駅まで15分ほど歩くことになりました。列車はオリヤンタイタンボ駅とマチュピチュのふもとの村アグアスカリエンテス駅間は運転するそうで、事故は大したことがなかったようです。

4:00に起きて5:00にスーツケース出し。5:45バスに乗って出発。赤い山肌が昨日よりいっそう赤く見えます。予定より3時間早いそうですが、朝早く歩くのは気持ちいい。雨季の終わりだからでしょうか、川沿い道路沿いにいろいろの花が咲いていて楽しい。ピーピーチュチュチュと声量のある鳥の鳴き声が近くで聞こえますが、姿は見せません。残念。
バスはスーツケースを積んでアシスタントのおねえさんもクスコに帰りました。私たちの今の荷物は、今夜一泊分の着替えだけです。クスコから一緒に来ていたアシスタントさんは、誰か高山病で具合が悪くなったときのための、非常要員だったのではないでしょうか。誰もこのおねえさんと一緒に帰ることにならなくて本当によかった。
上はクスコからマチュピチュまでの鉄道と道路の地図
下はマチュピチュまで4日かけてトレッキングで行く道
どちらも待合室の壁に直接描いてある
観光客専用特等列車という感じ
駅の待合室、改札口も別、
階級社会じゃない日本から来ている身には
何だか落ち着かない
ブルーにイエローの線入りのしゃれた列車が入ってきました。観光用特別指定列車という感じです。地元の住民用車両とあまりに違って居心地悪い気がするけれど、それは平和で金持ボケした日本人の甘い感傷で、この特別仕立てで観光客から高い料金を取り、安全を確保するようです。特に、チチカカ湖へ行く別路線の列車は、すさまじい押し売り強奪が日常的なのだとか。
1時間半くらいの乗車で、飛行機みたいに飲み物サービスがあり、トイレがついているので安心。展望観光列車だから、すぐ横の崖の大岩が列車の通る分だけ削ってあって、上に覆いかぶさっているのが見えて、すごい光景。いつかは落ちるよ、この岩。こわー!
どんどん谷を下るので、植生が変わります。温帯から亜熱帯へ。ユーカリの木(もともとここにあったのではなく、ヨーロッパから持ち込んだ木とか)がなくなるあたりから、高山病もなくなるそうです。2000メートルで亜熱帯とは。緯度が低いからと理屈では分かっても、回りの景色の不思議さにわくわくします。
《すさまじい濁流》



来るときに並んで下ったウルバンバ川の、泥色の濁流がゴーゴーと音を立て泡を立てて岩のあいだを流れ下る様子が一段とすさまじい。雨季だからでしょうが、これじゃもっと下流は水害ですよ、日本なら。地図で見ると、この後、北に向いて山地をどんどん下り、何本ものアンデスから流れ出るほかの川と合流しながら、先日行った幅4キロの大河アマゾンの町イキトスまで直線距離にして1000キロ以上も流れ下るようです。そこでまた、アンデス山脈の水を集めて、標高差がほとんどなくなって川幅が広がり、4000キロを経て大西洋に注ぐのです。この水が・・・

いよいよ到着。アグアスカリエンテス。不謹慎かもしれないけれど、脱線事故のおかげで、予定よりマチュピチュにいる時間が長くなってうれしい。雨が降ってきたけれど、午後はもっと降るという地元の人の言葉に従って、駅前のミニバス乗り場に急ぎました。
マチュピチュ行きミニバスは、すごいようなつづら折りの道を登って行くから、酔わないように、外の景色を見たい思いを抑えて、じっと目をつむって我慢。

ついに来ました! マチュピチュは霧の中でした

写真で見たのとまったく同じ風景。当たり前といえば当たり前ですが・・・ついに来た!マチュピチュ。こんなに簡単に来られるとは思わなかった。それに、こんなに大勢の観光客で賑わっているとも・・・それでもインカ最後の地とか、忽然と消えた人たちがこの後どこへ行ったかとか、その景観もだけれど、謎と不思議で、大いにロマンをかきたてられます。
若いアメリカ人歴史家、ハイラム・ビンガムが1911年に発見したといわれる山頂の都市。断崖絶壁の下の谷からは見えない。まわりを深い谷に囲まれて、霧の中に浮かぶさまは空中都市の名にふさわしい。

ビンガムはインカ最後の地といわれるビルカバンバがここではないかと考えたそうですが、今ではそれは否定されています。征服者スペイン人に見つかったら、クスコのように破壊され、キリスト教に改宗させられ、建て替えられたところでしょうが、見つからずに破壊を免れたマチュピチュは、インカの石組み、インカの建築様式をそのまま残した貴重な遺跡としてまるまる残ったのでした。

まわりの山々が霧にかすんで、ガイドの梶谷氏言うところの、晴れのマチュピチュも霧のマチュピチュもいいのだというのが実感できます。断崖絶壁というのはここの山のためにある言葉ですね。ここからさっきまでいたウルバンバ川まで400メートルの標高差が、何というか、真下、足元です。目の前の峰からはおそらく1000メートル以上あるでしょう。

マチュピチュの名は、すぐ横の高い山マチュピチュ山(老いた峰)からそのままつけられたそうです。遺跡をはさんで反対側に、ワイナピチュ(若い峰)という少し低い岩山が遺跡を守って屹立しています。このワイナピチュには登れると聞いていましたから、2日目自由時間に登るぞと張り切っていたのですが、ガイドの梶谷氏に、何人も足を滑らせて死んでいるし、勧められないと言われてしまいました。危険だと言われれば仕方ありません。ハイキングとうたったツァーではないし。とても残念だけど諦めました。そのために杖をスーツケースに入れて運んだのだけどなぁ・・・

インカ文明は車輪を持たず、鉄を持たない。しかも文字を持たなかったので、今も不思議の謎は解き明かされないまま。それでも、広い遺跡の中には、見ただけで分かるものもあって、今も水が流れる水路とか、石の向きと角度で冬至になると現れる事柄から、日時計とか、石をコンドルの形においた神殿、いけにえの台といわれる大きな石など。来る前に読んだ本には、1万人暮らした、墓地にあった骨が小さく、神に仕えた乙女と老人だけだった、と書いてありましたが、ガイド梶谷氏は、住んでいたのは5千人で、神官など身分の高い人用居住区と低い人用と地区が別れていたという説明でした。

コンドルの神殿 太陽の神殿 インティワタナ、日時計とか
3つの窓の神殿、王女の宮殿、太陽の神殿、石に凹みがあったり出っ張りがあったり、研究者がいろいろ推論するけれど、なかなか定説とはならないようです。だけど研究者ではない私は、草葺き屋根が復元されていないから、両側のとんがり壁の家の形の面白さや、よく言われるかみそりの刃1枚通さないぴったり接した石組みの見事さ。すごい急勾配に作られた段々畑のうつくしさなどに目を奪われ、喜び感嘆するばかり。

広いインカ国土をつないだインカ道がマチュピチュにも通じていて、当時、インカ飛脚といわれる人たちがすごいスピードで行き来して、情報を伝えたそうです。今は、山や峠を越え、このインカ道を歩いてマチュピチュに登るトレッキングに人気があって、4日かかって踏破するとか。その間、山や谷にいくつも遺跡があって、インカ以前の文明(プレインカと呼ばれる)の上にインカ文明が花開いたということもあったとか。
このマチュピチュもプレインカ文明の後を再利用したと考える人もいるそうです。

昼食は、マチュピチュ入り口にあるただ一軒のレストランで。入り口に陣どった黒づくめの4人の男たちが、ケーナ、チャランゴ、サンポーニャ、ボンボカホン?をあやつり、フォルクローレの見事な演奏。ちょっと音量ありすぎるけれど。途中でやはり自分たちのCDを売りに回ってきました。

昼食が済んだら、ミニバスに乗って下のアグアスカリエンテスに戻りました。やんでいた雨がまた降り出して、ホテルで休憩する以外にありません。毎日なんだかんだで忙しく、絵葉書を書く暇もありませんでしたから、ちょうどいい、時間ができたと傘をさして駅近くまで、道沿いのみやげもの屋を探して歩きました。現地の人しかいなくて、たったひとりのおばちゃんじゃ、声をかける気にもなれないらしく、店先で何人かでおしゃべりしています。自分の店に客が来れば戻るのでしょう。おばあさんがひとり座った狭い店に絵葉書が並んでいました。手を伸ばして取っても、何もいわずに笑みを浮かべて見ています。10枚選んで買いました。

今日のホテルもお湯が出ません。秘境の果てだから、仕方ないと思いかけましたが、白人が帰ってくるまでお湯を出さないようだと添乗氏が言って、ムカッと来ました。納得できる事情があるならともかく、そんなことを言われて、そうですかと引っ込んだわけですか。
21:30になってようやくお湯が出てシャワーが使えたのはよかったのですが、終わって浴槽から出ようとしたら、なんと床が水浸し。よく見ると、浴槽が床側にかしいでいるらしく、壁にかかった水が流れ落ちるのを止めようとして、端に仕掛けがしてあるのですが、全然意味がない仕掛け。バスマットで拭いては絞り拭いては絞り、20回は繰り返したでしょうか。最初、下の階に水が漏れないかと心配しましたが、くたびれたし、汗もかいたし、腹は立つし、散々です。これだ、これがあるからお湯はわざと出なくしたにちがいないと思えてきました。ひどいホテルでした。